serendipity-days

世界の片隅にひっそりと、素敵な偶然への遭遇

嵐士と嵐

1999年12月・・・ひっそりとT-BOLANの解散のニュースが流れた・・・
待ち望んでいたのにどこにも表れず・・・その頃音楽業界が最盛期を迎えており、様々な音楽が巷に溢れT-BOLANはすっかり過去のバンドとなっていた。

そんな頃に嵐がデビューしたので、「あらし」は「嵐士」であって「嵐」じゃない!といたたまれない気持ちになっていたが、それでも時間は流れていき、あれよあれよと「あらし」は「嵐」になっていった。

そして20年の歳月が流れた今、嵐活動休止のニュースが飛び込んできた。正直嵐の楽曲はとても好きだし、何より仲がいいのが画面を通じても分かる嵐にどれほど癒されたことか。休止のニュースにショックを受けた。と同時に昔に大好きだったグループが解散した時の記憶が思い出された。昨日の晩御飯が何かはすぐ忘れるくせに、気持ちの記憶と言うのは思いが強いほど忘れないものだ。何かしらの縁を感じずにはいられない。

解散・・・ファンのために生きているわけじゃない、自分自信の人生を生きるのを辞めさせる権利など誰にも無いが、それでもいつまでもそこにいるのが当たり前だと信じていたものが無くなる喪失感、消失感・・・ファンの気持ちは痛いほど気持ちがわかる。

さいころに、楽しい時間があっという間に過ぎて、友達が帰っていく、親せきが帰っていく・・・その後にぽっかり心に穴が開いたような気持ちを感じたことは無いだろうか?そんな気持ちになっているのかと。

帰らないでーー!!!と泣き叫ぶ事をする性格ではなく、この感覚は何なんだろうと自分に問いかけていた事をなぜだかよく記憶している。そしてその穴がどんなだったは今ではよくわかる。その子が大好きだったってことを。その子も自分の事を好きでいてくれて同じ思いでいてほしいと。その時間がいかに楽しい時間だったかってことを。

彼らは人であってロボットではない。感情も当然あるし、自分を見つめる時間、自分に向き合う時間が当然あるべきであり、立ち止まるタイミングも必要であろう。特に人様にいつ何時も見られて自由な時間が、一般人が思っているよりはるかに少ない人生において・・・。

休止であって解散ではないという希望を残してくれているのでその日を待とう。やっぱり嵐5人で同じ方向を見たいと言う気持ちが今以上に強くなることを。その気持ちもあるからこそ、解散ではなく休止なんだと言うことを信じて。